INICIAR SESIÓN第四幕 距離のかたち
春が終わり、夏が来て、気づけば季節がひとつ進んでいた。高校一年の終わりが近づく頃には、沙友里の生活は、完全にアイドルのそれになっていた。
レッスン、収録、イベント。
予定は前日に送られてきて、変更は当日の朝に知らされる。
『今日は帰れないかも』
『ごめん、明日も朝早い』
それだけで、一週間が過ぎていく。僕は慣れたふりをしていた。待つことにも、短い返事にも。
会える日は月に数えるほど。しかも、人目を避けてほんの短時間。
「……久しぶり」
そう言って笑う沙友里は、前より少しだけ遠慮がちだった。話したいことはたくさんあるのに、時間がそれを許してくれない。
「大丈夫?」
そう聞くと、沙友里は決まってこう言う。
「うん。ちゃんとやれてる」
それ以上は言わない。言えない、のかもしれない。
僕の前でだけ、弱くなってほしい。そんな願いを口にする資格は、もうない気がしていた。
——僕たちは高校二年になった。
クラス替え、そして新しい教室。少しだけ背が伸びた生徒たち。その中で、僕の時間だけが、中学の延長みたいに静かに流れていた。
僕の生活の中で起こった、もう一つの変化。それは、漫研に新入部員が入ったこと。
「
「知ってるよ。久しぶりだね、佐倉さん」
「お久しぶりです、先輩。中学の時みたいに、琴音で大丈夫です」
中学の頃、よく顔を合わせてた後輩だった。
「先輩の漫画、卒業してからも読んでました」
そう言われて、少し驚く。
「新作、描いてますか?」
目を逸らさずに、そう言う。まっすぐな声だった。
琴音は普段静かだけど、漫画の話になると止まらない。作品の感想も、疑問も、遠慮がない。僕は今書いている作品を渡した。
「この主人公、我慢しすぎじゃないですか? 言えばいいのに、って思いました」
自分のことを言われているようで、胸が痛んだ。
「……そうかもね」
琴音は笑う。
「でも、そこが好きです」
誰かに、そんなふうに言われるのは久しぶりだった。
すがりたくなるような言葉に、心が揺れた。
沙友里と話す時間は減り、会う時間はほぼ無い。あるのはメッセージのやり取りだけ。
返事は来る。でも、やり取りは続かない。
一方で、琴音とは、普通に話せる。同じ場所で、同じ時間を過ごしているから。
それが、危険だと気づいていた。
部室で二人きりになった時、琴音がいつもより近い距離で座る。肩が触れそうな距離。僕はさりげなく下がる。
琴音は何も言わなかったが、少し笑っていた。
触れようと思えば、触れられる。でも、僕は一線を越えなかった。
帰り道が重なる日も、二人きりになる瞬間もあった。それでも、手を伸ばすことはなかった。
夜、自分の部屋にいると、スマホが震える。
『今日、ライブだった』
『ちゃんと、やれたと思う!』
いつもの短いメッセージ。でも、少しだけ温度があった。
『お疲れさま。無理、してない?』
しばらくして、返事が来る。
『大丈夫!』
『直哉がそう思ってくれてるなら』
その一文で、胸が締めつけられる。
——思ってくれてるなら。
何も出来ずに心配するだけ、それが前提になっている言葉だった。
僕は沙友里を信じている。それは本当だ。でも同時に、信じることでしか、繋がれなくなっていた。
琴音が言ったことがある。
「先輩、誰かを待つのって、しんどくないですか?」
「……しんどいよ」
正直に答えた。
「でも、やめたいとは思わない」
琴音は、少しだけ黙ってから言う。
「優しすぎですね」
それは、褒め言葉なのか、それとも優しい警告なのか。
高二の夏——
沙友里のグループは、さらに忙しくなった。一人の都合じゃ、何も決められない立場になっている。名前を呼ばれる回数が増えて、遠くの会場にも行くようになった。
僕は、ライブに行くことすら、ためらうようになっていた。近づきたい。でも、近づけない。
一方で、普通の恋愛も、確かに目の前にある。
そのことを、考えないようにしていた。
でも——いつまで続くのか。
答えは出せなかった。
第六幕 また手を取り合って ライブ会場は、あの夜と同じ匂いがした。照明の熱、人の波、胸の奥まで響く低音。——結局、来てしまった。 最前列じゃない、目立たない席。それでも、ここからならちゃんと見える。 ステージに光が落ちる。歓声が上がり、一番前の列に沙友里が立っていた。 以前見た、あの夜と同じ構図。僕は客席で、沙友里はステージの上。 歌い出した瞬間、会場の空気が一気に持ち上がる。あの頃より、ずっと堂々としている。声も、表情も、動きも。——アイドルなんだ。 そう思ったら、目を離せなくなった。これが沙友里の目指した世界だった。 曲の途中、沙友里がふっと客席を見る。ライトが揺れる。視線が流れる。……今。&
第五幕 伸ばせなかった手 最初に見たのは、ニュースでも記事でもなかった。 SNSから流れてくる噂だった。写真はぼやけていて、夜の街で、二人並んで歩いているように見えた。 だが、僕は見間違えない——沙友里だった。 沙友里と、知らない男。「○○と一緒だったらしい」「仲良さそうだった」「距離、近くない?」 確かなことは、何ひとつ書いていない。でも沙友里は、今をときめくアイドルグループのフロントメンバー。拡散するには十分だった。 僕は、スマホの画面を閉じた。
第四幕 距離のかたち 春が終わり、夏が来て、気づけば季節がひとつ進んでいた。高校一年の終わりが近づく頃には、沙友里の生活は、完全にアイドルのそれになっていた。 レッスン、収録、イベント。 予定は前日に送られてきて、変更は当日の朝に知らされる。『今日は帰れないかも』『ごめん、明日も朝早い』 それだけで、一週間が過ぎていく。僕は慣れたふりをしていた。待つことにも、短い返事にも。 会える日は月に数えるほど。しかも、人目を避けてほんの短時間。「……久しぶり」 そう言って笑う沙友里は、前より少しだけ遠慮がちだった。話したいことはたくさんあるのに、時間がそれを許してくれない。「大丈夫?」
第三幕 デビュー 高校に入って、まだ春の匂いが残っている頃。新しい制服にも、ようやく慣れ始めたばかりの時期。 グループとしてのデビューが決まったと聞かされたのは、いつもの帰り道だった。「今日ね、話があって」 沙友里は、歩きながらそう言った。声は落ち着いているのに、指先だけが少し落ち着きなく動いている。「……私たちのデビュー、決まった」 一瞬、僕は言葉が出なかった。胸の奥で、何かがほどける音がした気がする。「おめでとう」 それだけ言うのに、少し時間がかかった。沙友里は、ほっとしたように笑う。「ありがとう」 嬉しいはずなのに、その笑顔はどこか慎重だった。「でもね」
第二幕 レッスンの日々 それからの日々は、立ち止まる暇もなく流れていった。 沙友里は本格的なレッスンが始まり、徐々に忙しくなっていく。レッスンがある日は、スタジオまでの送迎だけになった。それ以上は、何もできなかったし、しなかった。 建物の前で立ち止まる。ガラス張りの入口の向こうから、僅かに音楽が漏れてくる。低いカウントと、床を踏む音。知らない大人の、鋭い声。「行ってくるね」 沙友里はそう言って、振り返る。笑顔を作ろうとしているが、なっていない。「うん」 それだけ返して、一歩下がる。ここから先は、僕の場所じゃない。 最初の頃は、帰りが遅かった。みんなが出てきても沙友里だけ出てこない。やっと出てきたと思ったら、 顔色が悪くて声も小さい。「どうだった?」 そう聞くと、沙友里は決まって曖昧に笑う。
第一幕 繋いだ手 僕たちが中学三年だったあの頃、放課後はいつも騒がしかった。 通っていたのは、大和中学校。そこで僕が所属していたのは漫画研究部——通称漫研。沙友里はダンス部だ。部活帰りの声、下駄箱の音、夕方に近づく校舎の匂い。でもその日、僕たちだけが違っていたのかもしれない。「直哉」 呼ばれて振り返ると沙友里がいた。制服の袖を少しだけ引っ張って、言いにくそうに視線を落としている。「……一緒に帰ろ?」 断る理由なんて、最初からなかった。並んで歩く帰り道。何だかいつもより歩幅が合わない。明らかに様子が違っている。 沙友里は何か言いたそうで……でも、言わない時間が続く。沈黙に耐えきれなくなったのは、僕のほうだった。「どうしたの?」 沙友里は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく息を吸った。







